うさぎと鯉と私と好きなもの

趣味の色々の記録場所。

心が満たされるまで その先が見たい

これは、私の主観と思い出の話である。


開幕カードを現地観戦したときに、ひとつだけ後悔したことがある。
あの、平成の怪物を探さなかったことだ。
投げないことは分かっていた。だが、帯同している可能性があることも知っていた。
去年の開幕カードで私は虎の19番を球場と、帰りの駅で見かけたのだ。
「いるよ!」と騒いだことを覚えているのに、彼は若手でもないしなぁと頭の片隅に追いやっていたのだ。
だが、怪物はいたのだ。一角ではサイン会が繰り広げられていたらしい。
羨ましい限りである。

客寄せパンダ、とは言うがひとくくりにしても良いのだろうか。
甲子園で大活躍して、プロ入り後に大活躍して、メジャーでも結果を残した。
まだ必要とされながらも惜しまれながら日本に帰ってきた、となれば綺麗なんだろうけども現実はそうもいかない。
人生って厳しいな、と思いつつも私は彼が輝いていた頃を覚えている。
一番輝く場所で、結果を残していたのを覚えている。
だからこそ、彼がまだ元気でいるならそれは楽しみである。
彼を見るためだけにナゴドへ行きたい、と思うのはきっと私だけじゃない。
そこで活躍してくれたら嬉しいよね。竜ファンなら、勝てばもっと嬉しいよね。
それは悪い効果じゃないはず。

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開場前に売り切れていたのだから、彼の期待と人気は目に見えてわかるのではないか。
…そりゃね、ちょっとミーハーしたくなるよね、買うよね。


そんな彼と同世代の選手は数少ないがまだいる。
というのは前ふりで、いなくなった選手がいる。
旧6番の話だ。

彼をルーキーの頃から知っている。
32番を背負った彼は『新人王をとる』と宣言して実行した人だ。
入りたい、と言って入団してきた人だ。
7番が欲しいと宣言するような人だ。
ルーキーシーズン、怪我をして離脱するときに悔しくてふがいなくて泣くような人だ。
難しそうに見えて、熱い人だったと思う。
旧2番が入団してきた頃の内野はいわゆるファイヤーフォーメーションで、旧2番もぽろぽろしていた時代だった。
余談だがその頃の2番のサインボールが当たり、我が家ではブーイングの嵐だった。
後にごめんなさいと皆でボールに謝ったことまで追加しておこう。
そんな内野で彼がショートに納まって、同級生二遊間が出来上がった。
現在も同級生二遊間だが、その時の同級生二遊間は、6と2であった。
ゴールデングラブだったり、盗塁王だったり、彼は守れて走れる選手だった。
過去形にはしたくはないが、決定打となる怪我をするまでは間違いなく揃って自慢の二遊間だった。
旧2が怪我をして離脱をしてしまった頃、やってきたのが今のセカンドである33番だ。
今でこそ忍者といわれているが、当時はドーナツ型とも言われていた。
そんな33番の横でまだショートを守っているのが、彼だった。
彼は私の記憶の中ではショートだった。

まだ記憶に新しいと言ってもいい2013年。
あの日、私は甲子園にいた。
真っ赤に染まった甲子園のレフトスタンド。
1試合目も思ったけども、こんなに赤い甲子園なんて記憶になかった。
いつものように9割がた黄色いのだと、そう思っていた甲子園はビジター指定から溢れる赤でいっぱいだった。
そんな第二試合の外野席に、私はいた。
間違いなく甲子園が赤く染まるきっかけとなった二試合のうちのひと試合だったと思う。
その日のショートを守ったのは、彼だった。
CSの彼は大当たりだった。
三塁ベース上のガッツポーズを目に焼き付けた人は私だけじゃない。
あの時、彼は確かに戦力だったのだ。
彼がいなくては、あの年は勝ち抜くことなんてできなかったのだ。

「まだ梵の印象だしなぁ」

まだ一軍定着する前から60番のユニを着ている友人に、買い替えるのかと問うたらそう答えた。
私の弟は、六文字のアルファベットが書いてある6番のユニを今年も着ている。
球場にも、まだいる。
彼はそれだけ、思われている。

引退するなら赤いユニフォームでしてほしかった。
最後を見届けたかった。
それでも彼がまだやりたいのなら、見守っていたいと思う。
諦めるのはいつだってできる。だから、今じゃなくてもいい。
だって彼も、私の子どものころからのヒーローには違いないのだから。
ボロボロな姿を確かに見たくない部分はあるけども、終わりを決めるのは本人だけだ。
彼のインスタで動向を覗き見ながら、私は彼がグラウンドに戻ってくる時を待っている。
終わりを告げるのは、グラウンドの上にしてほしい。